2017年7月29日土曜日

江戸川開削で村域を分けられた村々【吉川市内の一部も元流山市域^^;】

あいかわらず江戸川関係のネタが好きで、暇があると古い地図なんぞ見つけてニヤニヤしてる気持ち悪いワタクシですが、今回は野田市立図書館所蔵の『下総国輿地全図/1849年(幕末期)』をみて見つけたお話し^^;

下総国輿地全図/野田市立図書館Webから

現在の流山市域あたりを見て、ムムム!と思ったのが
江戸川を挟んで同じ地名が結構見られるんですよね^^;

下総国輿地全図の現流山市域アップ

「南」「上新宿」「小屋」・・・「深井」と江戸川を挟んで仲良く両側に並んでるわけです^^;(支村扱い/一部は新川さえ挟んでる)

このブログでも以前「江戸川奇譚」ってシリーズを書いて、現流山市の下花輪交差点あたりまでの江戸川は舟の通りを良くするため人が掘った人工河川であることは承知してたんですが、ここまで同じ地名が分割して載ってる地図を見ると”やっぱり人工河川だったんだなぁ”と思うとともに、江戸川(庄内古川/太日川)の流れが変えられた後も[基本は同じ集落内]ですから頻繁に行き行きしてたんだろうなと思うわけです^^;

ちなみに現在この江戸川の西側は埼玉県吉川市!
んで・・・だとしたら”今でも吉川市現流山市由来の地名結構あるんでは??”と思って見たらあるわあるわ^^;

まず【三輪野江】という大字(元は村)^^;これなんか三輪野山と明らかに対応した地名ですし、【半割】なんていう”分割されたことをイメージさせる名前の”字”もある^^;
さらに【深井新田】なんてモロに流山由来の地名が残ってる場所もあるんですね^^;

少なくとも江戸後期(1849)においては下総国輿地全図に記されてるように現流山市となる村々の飛び地扱い(武蔵国でなく下総国)だったようですし、このエリアの庄内古川(江戸川の元になった川=国境 / 現在の江戸川より少し西を流れてた)も大正期まではカタチが残ってたですので「どの時期に埼玉に編入されたんだろ??/恐らく明治20年代?/松戸の外河原村と同じく江戸川改良で河川敷にされた?」と調べようとしたところで時間が尽きて、続きはまた気が向いたらと相成りました^^;

飛び地とはまったく関係ないと思われますが「下総国輿地全図」を見ると
”加”だけが【加邑】って記されてるんですよね^^;特別な格式でも村落にあったのかしらん??

※”邑”ってのは、中国式にカッコつけた村の呼び方^^;

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